HISTORY 歴史

文人たちが愛した緑豊かな街

江戸の街づくりと番町の歴史

古地図|番町パークハウス image photo
江戸時代、徳川家康の入府とともに江戸の町づくりと番町の歴史は幕を開けました。濠を張り巡らし、城を中心として多くの武家屋敷が集められ、やがて江戸の町は100万人を超える都市にまで成長を遂げます。江戸の面積の60%を占める武家地に約50万人、その一方で、わずか15%の町人地に約45万人が暮らしていた事実からも分かるように、武家屋敷は広大な敷地を有していました。そこに諸大名や旗本たちは独自の庭園をつくり込み、季節の色彩や緑を愉しむことを文化にまで高めていきます。庭の緑の豊かさは、住まいの格式や生活水準の高さをも表していました。その後、庭園を愉しむ文化や自然をこよなく愛する日本人の気風によって、江戸は緑に囲まれた都市を形成。その緑は自然のままの緑ではなく、人の手によって育てられ、手入れされた都市の庭園ならではの美しさを誇っていました。

歴史ある邸宅地のひとつ、番町

周辺イメージ|番町パークハウス image photo
「番町」という名は、外濠の内側、つまり城の中とも言える高台に護衛の要として、幕府直属家臣で構成された大番組が配置されたことに由来します。高級旗本であった彼らは、この場所に武家屋敷街を形成し、江戸城および諸門の警備を行いました。明治に入ると、それらの広大な敷地と緑豊かな庭園を持った武家屋敷は、財界人や文化人の邸宅として住み継がれていきます。こうして急速な近代化と西洋化の進む東京にあって、番町は豊かな自然を残しながら、歴史ある邸宅地のひとつとしての気品や風格を守り続けてきました。また、近代教育発祥の地として知られるこの一帯は、10校を超える歴史ある学舎が集結した学園都市と言っても過言ではありません。それに伴い、政府高官の子女が学者や思想家として育ち、多くの文人たちが集まったことでも知られています。文人通りと名付けられたエリアをはじめ、番町は数多くの文人たちに愛されてきました。

時代の進化と洗練を受け入れてきた街

周辺イメージ|番町パークハウス image photo
番町に武家屋敷として残された広大な敷地は、すべてが新たな邸宅として住み継がれたわけではありません。開国以来、日本に公使館や領事館を求めた外国政府の多くは港に近い横浜や品川に居留しましたが、やがて新政府の発足に伴い、都心に恒久的な公使館を求めてこの界隈に点在した武家屋敷跡を買い取り、数多くの大使が移流してきました。こうしてヨーロッパをはじめとする外国大使がここに居を構えることは、日本人にとって大きな生活文化の変化をもたらし、番町は、いち早く西洋のライフスタイルを取り入れた街となりました。また、明治政府の学制頒布とも相まって、近代教育発祥の地として知られていますが、それは江戸時代から続く教育・文化施設があったことに加えて、学校を建てるのに最適な広い武家屋敷があったからに他なりません。このように、番町にあった武家屋敷跡は時代の進化と洗練を受け入れ、この地に残された緑豊かな庭園も次第に姿を減らし、現在ではごく僅かとなりました。
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